1998年 22×32cm(P.4掲載)不忍池の北側から東京大学の竜岡門へ通じる坂道が無縁坂である。左は財閥岩崎小弥太邸。右は長屋の続く一角。高利貸の妾お玉が東大生と交遊が生じたことによって新時代に目覚める姿を飛び立つ雁の姿に象徴的に重ね合わせた森鴎外の小説「雁」のモデルとなった坂。坂の下に昔、かりがね(雁)荘という旅館があった。長屋は今は高級アパートになっている。
1980年 32×22cm(P.13掲載) 本郷六丁目にあった下宿本郷館は木造三階建で、大勢の学生や青い目の留学生もいた学生街のシンボル的存在だった。明治三十年代の建築というが住人はみな大切に住んでいたようで、毎月消防訓練をしたと言われている。坂の下から仰ぐと船の舳のように突き出していて一層見事だった。この建物も今はなくなった。
1994年 22×32cm(P.48掲載) 関東大震災の残土や瓦礫で埋め立てられて、広くなった月島の町は豊洲や深川の工場地帯で働く人たちの住宅地として形成され、昭和の新しい町として栄えてきた。隣の佃島が漁村の面影を残しているのとは対照的である。月島は昭和の下町の路地や建物が今も残っていて画題になる。
1979年 13×18cm(P.53掲載)隅田川に一銭蒸気が通っていた頃、各橋のたもとにこんな待合室が浮いていた。向いは佃島でク㆑ーンが見える所は石川島造船所の敷地であったが、現在では東京で一、二を争う高級マンションが建っている。最近では佃大橋や地下鉄で簡単に対岸へ渡ることができ、ここでも川と人との関係が疎遠になってきている。
1982年 22×32cm(P.58掲載)日本橋兜町にあった東京証券取引所の円筒型のビルが左端にちょっと見えている。その傍の運河に明治の版画に出てくるような古い橋がかかっていた。それがこの「よろひ橋」である。これを描いた当時、この橋はもう老朽化して都電の線路も外され人も渡ることが出来なかった。その後、橋は撤去され、この道は再開発によって今では想像もつかないくらい変わってしまった。
1990年 32×22cm(P.64掲載)映画産業の斜陽とともに浅草の娯楽街六区は寂しくなった。昔、画面左の東京クラブ、右隣のトキワ座、さらにその右に松竹座と娯楽施設が並んでいて、各館を一本の通路が貫通していた。どの館の入場券で入っても三館通して観ることができた。少年店員など休日は切符一枚で一日中遊ぶことができたので彼等にとっては天国であった。各館はそれぞれ日本映画、外国映画と毛色の違う映画を上映していた。
1975年 35×20cm(P.76掲載)都電荒川線の都電雑司ヶ谷駅附近の踏切から、新宿副都心の方を描いている。新宿にはまだ超高層ビルが3棟ほどしか建っていなかった。ビルを強調したせいかニューヨークの風景の様にも見える。近くに雑司ヶ谷墓地の端がある。そこに旧巣鴨刑務所で処刑された受刑者の共同墓地があって夕方は少々うす気味が悪かったのを覚えている。
1962年 28×16cm(P.92掲載)山手線恵比寿駅に近くにあったビール会社の跡地は、東京都写真美術館がある恵比寿ガーデンプ㆑イスという文化村になり賑わっている。正面の煉瓦の建物は、ビールの原料になる麦の乾燥倉で屋根に並ぶ4本の塔は換気装置である。私は電車で通るたび、このメルヘン風な工場に心を魅かれていた。かすかに見える街は渋谷である。昔はこの辺りも東京の郊外であった。
1993年 22×32(P.99掲載)品川を出発した京急本線が八ツ山橋でJR東海道本線の上を越え、坂を下るとその辺から東海道の旧道が始まる。旧道の近くに昔の海岸の名残がないかと注意をしていたら、路地の奥に船宿が2、3軒と屋形船の浮かんでいるのが見えた。さらに進むと、旧道は品川宿の中心に入る。日本橋を出て最初の宿場で、旅人はここで見送りに来た人と別れを惜しんだことだろう。
1981 年 22×32(P.103掲載)茅場町方面から永代橋を渡ると間もなく道の左右は縦横に掘割が通っていた。江戸時代から貯木場として栄えていたところだ。戦後地盤沈下が進み、掘り割りに架かる橋はどれも水面がすれすれになり、浮いている貯木が橋をくぐれなくなった。やむを得ず木場は東京湾の方へ移転し、新木場ができた。旧木場は随時埋め立てられて草原となっていたが、近年、東京都現代美術館などの公共施設が建てられ、生まれ変わりつつある。
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